インドネシアの伝説の国民車、Timor(ティモール)を知っていますか?
恐らく知っている人は少ないでしょう。
インドネシアに住んでいる人ですら知らないかも知らないレベルなので、日本に住んでいる人はかなりの確率で知らないでしょう!
その昔インドネシアは国民車を夢見て国民車生産にトライしたのですが色々な問題があり現在では生産されていません。
しかしそのインドネシア歴史に埋もれた幻の車から様々な登場人物やその背景が見えて面白いのでシェアします。
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目次
インドネシアの自動車業界初期
インドネシアには日系自動車メーカーとしてトヨタが最初に工場を作りました。
まだどこも投資に消極的だった頃にトヨタは積極的に投資し、それが功をなしてインドネシアで圧倒的なシェアを作りだしていました。
当時は自動車メーカーが16社も存在していましたが、その市場規模は40万台/年 未満という小さい規模だったので競争が激しかったともいえます。
そんな中にある計画が打ち出されるのです。
Timor(ティモール)とは?
インドネシア初の国民自動車でマレーシアの国民車プロトンのような存在になることを目指して1995年―2005年までインドネシアで販売されました。
最初のモデルはProton SEIのパクリだったようです(汗)
オーナーはスハルト元大統領の3男、Tommy Suhartoで、起亜自動車から技術供与を受けてPT. TPN(Timor Putra Nasional)をトミー氏が個人出資で設立しました。
自動車産業に個人出資って(笑)
なぜそんな金があるかというと、彼はHumpussグループという巨大コングロマリットのトップだったからです。
ちなみにTimorとは“Teknologi Industri Mobil Rakyat”(国民車産業技術)の略です。
というのは建前の話。
Timorとはティモール島を意味して、当時まだインドネシアであったティモール島はインドネシアのものだ(独立させない)という暗黙のメッセージというのは周知の事実です。
もっというと会社名のTimor Putra Nasionalも「国の子、ティモール」という意味ですからはっきりとしたプロパガンダですね。
まあ最終的にそのティモールも2002年に結局インドネシアから独立するんですがね。
それでも当時のインドネシアが如何にティモール問題について関心を持っていたかよく分かりますね。
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Timorのなんかすごい話
国民車Timorには関税及び奢侈税などあらゆる税金が掛かりませんでした(VAT以外)
いや、掛からないようにしました。
まじで?誰が?
トミー・スハルトの画策です。
というのは当時インドネシアには16の自動車ブランドが存在した為、特別待遇しない限り国民車といえどこんなオリジナルブランドは生き残れないと判断しました。
良し悪しは別として、悪知恵が働きますなあ。
但しこの国民車特別待遇に条件もありました。
100%国内資本、オリジナル資本、3年以内に現地調達率を段階的に60%以上にすること、輸出を始めること、達成できなければペナルティを課すという内容でした。
(どんなペナルティだったかは明らかではないです)
こんな好条件から始めた国民車Timorは当時販売されていたトヨタカローラの半額です。(3500万ルピア)
当然日系自動車メーカーからは不満の声が出て、それだけではなくWTO違反で世界から問題視されました。
更にいうと60%以上の現地調達率というのはトヨタですら無理な数字だったので達成できないのは目に見えていましたが、この内容で国民車計画は始まってしまいました。
Timorのもっとすごい話
Timorはインドネシア初の国民車として扱われるようになりましたが、インドネシアには自動車を一から作る能力はありませんでした。
そこでインドネシアから海外へ部品を送り、組み立てて輸入すれば国民車だよね!?
という理屈で海外で組み立てることが決まりました、つまり委託製造です。
場所は技術供与元の起亜自動車の拠点がある韓国です。
勿論輸入関税はありません!
まさか国民車を初期の段階で海外から輸入するとは誰が予想したでしょうか。
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起亜、棚からTimor
当時起亜の韓国国内販売業績は不振で、輸出を伸ばしたいという思惑がありました。
そこで国民車を作りたいが技術がないインドネシアが出てきてお互いの利害が一致した形になりました。
ちなみにTimorのS515/S516セダンモデルはKia Sephia(厳密にいうとマツダ・ファミリア)がベースになっていました。
というのも当時マツダは起亜の株主で技術移転もしていたからです。
最終的にインドネシア政府との取り決めて1年で最大45,000台売る計画が立ち、起亜としてはまあまあ良い話となりました。
(参考:当時の自動車販売数:インドネシア38万台、韓国154万台、日本680万台)
Timorの転落劇
その後起亜は世界的に有名なZagatoに車のデザインを依頼し、Cikampekという土地に1998年完成予定で部品の生産工場計画を立てるなど2モデル目に力を入れていました。
しかしアジア通貨危機が起きて1997年に起亜がまさかの崩壊、1998年5月にスハルト政権も崩壊してこの2モデル目のTimor国民車計画は一気に頓挫しました。
(悲惨や・・・)
ちなみにスハルト政権に不満を持っていた人が多かったため、このファミリービジネスと揶揄されたTimorの販売は45,000台どころか2,500台程しか売れていなかったようです。
そんな不満でアジア通貨危機の暴動時にTimorは標的にされて、Timor車の所有者達は狙われないように”T”のエンブレムを外して害を避けました。
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Timorの末路
その後なんどかTimor復活、もしくは国民車復活の声を唱える人もいるそうですが、2017年現在まで復活の兆しは全く見えておらず、忘れられた幻の国民車プロジェクトとなっています。
まとめ
Timor計画とは国民車計画と世間では言われていましたが、実態は起亜自動車とHumpuss社が旨みを得るだけという内容で、マレーシアの国民車プロトンとは全く異なってしまっていたことから、国民は実際夢の計画とは思っていなかったんでしょうね。
おまけ
ゴルゴ13でこの国民車Timorをもじった陰謀論の話があり、それはそれで面白いのでもし良かったら読んでみてください。